adhoc notes

とりとめのない雑記

ひさしぶりに大学に行った

後期の日程の確認をするために、ひさしぶりに大学に行った。

まだ後期の授業ははじまっていない。そのため学内に生徒はほとんどいなかった。それでも俺と同じ目的で大学を訪れているであろう生徒をちらほらみかけた。サークルの練習に励んでいる生徒もいた。ある男子学生は生協前のベンチで精一杯にトランペットを吹いていた。いくぶんふくよかめの胴回りが周期的にふくらんだり、へこんだりしていた。俺はその様子をながめながら、隣のベンチでアホみたいに安い生協の弁当を、朝昼兼用の飯としてかきこんでいた。

大学はそれなりに楽しい。

友達は少ない。ただそれはあんまり苦にならない。中学でも高校でもだいたい同じような状況だった。それでも何人かは腹を割ってつきあえる友達がいた。いまでもその友達とは親交がある。本当に自分ひとりではどうしようもなく解決のしようのない問題に面したときは、その友達に頼ることができる。それだけで充分に幸福なことだ。これ以上のなにを望むこともない。

大学にもひとり友達がいる。まだ、友達といっていいのか微妙な距離感ではあるが、週に二回くらいは昼食の席をならべ、愚にもつかない話に興じている。彼も学部のなかでは孤立ぎみの人間だ。類は友をよぶということなのだろうか。そういう奴らはいくらはねつけあってたとしても自然に群れてくる。俺と彼との関係もその例にもれない。

孤独な時間をつぶすのにうってつけの趣味ももっている。読書だ。読書をしているうちは、本当に自分のまわりの状況から隔絶されて、自分と書物との関係に埋没することができる。幸い、俺は好奇心が旺盛なほうなので、読む本にこまることはない。大学の図書館で適当に興味のある新書を借りて時間を潰すこともあれば、ちょっとした専門書にあたることもある。孤独な時間をつぶすための読書には実用的な書物が好ましい。こういうときに小説の読書ははかどらない。それがなぜなのかはわからない。俺の友達のなかには、そういうときにこそ、小説の読書がはかどるというやつもいる。そのあたりの事情は人それぞれなのかもしれない。

大学では授業中に本を読んでいても、特別なことがなければ注意されることはない。単位を落とさない程度に授業に参加しながら、そのほかの時間はほとんど本を読んでいる。それなりに要領がいいのか、まだ単位を落としたことはない。あるいはこれからがんがん単位を落とすことになるのかもしれない。快調に留年をかますということもあるのかもしれない。しかし、そんな状況に陥るまえになんらかの対策をうつだろうから、そうなる可能性は低いだろう。大学入学当初は「大学にはいったからには一回くらい留年してやろう」と思っていたのだが、普通に単位がとれたりしているので、案外留年するのも難しいのかもしれない。

そんなふうに大学ではそれなりにやっている。それなりすぎるくらいだ。あるいはこれからさき、その「それなり」感に嫌気がさして、この生活を破綻させることもあるのかもしれない。ただ俺の性格を鑑みるに、そういう類の暴発を起こすことはないだろう。たぶんこの「それなり」感はこれからもつづく。抑揚のない無神経な生活はつづく。

そんなことを大学の生協前のベンチで弁当を食べているときに考えた。まだ吹奏楽サークルの男はトランペットを吹いている。俺はヘッドフォンで音楽を聴いている。だから俺には彼の楽器がひりだす音が聴こえない。