adhoc notes

とりとめのない雑記

鍋料理をつくる機械と化した先輩.txt

今週のお題「秋の味覚」

この季節になると、俺は鍋料理をつくる機械と化す。

なによりもまず鍋料理は簡単だ。スーパーで適当な野菜や肉、きのこ、豆腐を買う。シメにつかう麺類も忘れない。食材を適当な大きさにきざむ。食材を鍋に投入する。鍋を火にかける。これだけでおいしい鍋が楽しめる、最近だとインスタントスープをつかうことで手軽にいろんな鍋を楽しむこともできる。俺は味噌風味の鍋がすきだ。

一人暮らしであれば、九号の鍋一杯分で二日分くらいの夕食がまかなえる。具がなくなったあとも、スープをうどんや雑炊に使いまわせば、もうすこしもつ。そうやって俺は秋と冬を乗りきっている。

食後の掃除も簡単だ。せいぜい、まな板、包丁、鍋、お椀くらいだろう。脂っこいスープをつかったあとは、ちょっと掃除が面倒だが、それもほんのちょっとだけだ。むしろ手がささくれだちやすいこの季節においては、水場におけるこの脂っこさがむしろ救いであったりすることもある。…さすがにそれはないかな。

そして、俺は今日も「鍋料理をつくる機械」として快調に駆動していた。なにも考えたくないときは機械になるのがいちばんだ。可能性のうつわである心身の用途をいくつかの機能に限定していく。無神経な生活であるための無神経な機械への生成変化。

だから、俺は今日もスーパーに買いだしにいった。

家の近くにある大型スーパーに向かう。複合商業施設のなかに開かれている大型スーパーが俺のホームグラウンドだ。食材の買いものといったらもっぱらここだ。一週間のうちに二回か三回は訪れている。スーパーの品揃えもすっかり秋バージョンに様変わりしている。

炊きこみご飯の素があった。炊きこみご飯はあまり好きではない。歯茎になにかがしみる感じがする。俺だけかもしれない。誰かにそのことについて聞いたことはない。たぶんこれからさきも聞くことはないだろう。

炊きこみご飯のコーナーの前で若いカップルが炊きこみご飯の素を選んでいた。それで炊飯器一杯のご飯を炊くのだろうか。男のほうが茶碗二杯ぶんくらい食べるのだろうか。女のほうは一杯半くらい食べるのだろうか。残ったぶんはひとつひとつ容器にいれて冷凍するのだろうか。それは翌日の誰かの朝ごはんになるのだろうか。わからない。でもその様子を想像するのは楽しかった。俺もいつか誰かとそういうふうになれればいいな。そんな達成難易度が測りがたい妄想にふけっていた。

人は絶対的に達成不可能であるような対象について妄想を巡らせることはない。「妄想を巡らせる」という行為は、その前提として、その対象が妄想の主体において実現可能であることを要求する。人は絶対的に実現不可能であるようなものについて妄想しない。人は絶対的に実現不可能であるようなものについて妄想することができない。もしなんらかの妄想のあとにむくりと起きだしてくる「虚無感」に起源があるとするならば、それは対象の実現不可能性にはない。その虚無感は妄想の対象の実現可能性から生まれている。もうすこしつめて書こう。その虚無感は妄想の対象の実現可能性とこの現実との落差から生まれている。

「あのようにありえるかもしれない。しかし、いまはそうなっていはいない」

なんかこういうふうに書くと当たりまえのことのように思える。あるいは当たりまえのことなのかもしれない。

そういえば俺は鍋料理をつくる機械だった。俺は野菜コーナーに向かった。

今日は野菜セットを試してみる。あらかじめ鍋料理に使われる野菜がてきとうなおおきさにカットされた状態で梱包されているものだ。なかなか便利だと思った。ただ消費期限が決まっているので、買いおきには向かない。冷凍すると割合もつのかもしれない。今度試してみよう。俺は野菜セットを二パック買った。

俺は木綿豆腐を三丁買った。ひとつは今日の分ということで、賞味期限が短めの、ちょっと安い木綿豆腐を買った。せいぜい一〇円ちょっとしか差はないが、なんとなくこっちを買ってしまった。一〇円。

あと固形スープをひとつ買った。八個入りで、四粒で四人前相当のスープがつくれるらしい。これで一週間はもつはずだ。これまで食べたことのないスープを買ってみようかとも思ったが、びびりな俺はいつものスープを買った。

買い物はこんなもんだ。レジでおばさんにしれっと割りこみされたりもしたが、つとめて精神的な貴族であろとしている俺は、そのババアの凶行を見てみぬふりをしたあとに、その記憶を抹消することによって、ソウルジェムを曇らせることなくそのイベントを回避した。

自転車をきこきここいで部屋にもどる。

先にのべた手順にしたがい、鍋をつくる。

鍋を食べる。うまー。