adhoc notes

とりとめのない雑記

大学のベンチで友人と美少女ゲームについてしゃべった

今日、大学で友人と話していた。

すこしまえの記事で、俺が「まだ友人といえるかどうか微妙な距離感」と評していた男だ。あの記事を書いたあとに、彼との関係についていろいろと考え、彼を友人といっても差しつかえない人間だと考えることにした。

このように書くとなんだか複雑な過程なように思える。実際には夏休み明けでひさしぶりに会ったにもかかわらず、即座に前学期のような会話のリズムをとりもどせたことから、なかなか波長のあう人間だな、と思ったということだ。こういう人間は貴重だ。

ある友人にいわせると、俺はころころとリズムが変わるらしい。「リズム」というのはその友人特有の用語だが、噛み砕けば、短い周期でしゃべりかたや性格が変わっているように見えるということだ。俺にはそういう認識はない。ただ俺は消費したコンテンツに影響されやすい性質なので、自分で意識できてない部分でしゃべりかたやある種の態度のあらわしかたが変化しているのかもしれない。

それはなかなかに不幸なことのようにも思える。俺はつねにある程度の一貫性をもつことを至上命題として日々を生きている。それは俺が、なんらかの倫理を実践するための条件を、その主体がひとつのテンションのもとに組織されていることに据えているからだ。俺のなかでは主張の一貫性というものは、よりよく生きるための前提条件だ。だからそうであるようにつねに努めている。

しかし、内心そんなことを考えている人間が、ある他者の目線からみると、ゆらゆらとぶれているように見えるのだ。その二面性について理解することはたやすい。このタイプの二面性を主題にとらえた哲学書や小説も多い。しかし、それが自分の問題として引きうけられる事態にはいろいろと思うところがある。以外と悲しい。

別の話題に飛びそうになったので、ここで切断する。

とにかく彼は友人だ。この関係はしばらくつづくだろう。

その友人と大学で話していた。生協の入り口のまえに置いてあるベンチに座って話していた。俺は温かいコーヒーを、彼は冷たい紅茶を飲んでいた。俺たちは互いの好きなコンテンツについて話していた。彼は彼の好きな小説や音楽について語っていた。いくつか関心領域が重なる部分もあり、そこでは端的な共感がえられた。一方、俺がまったくしらない作家の名前が挙げられることもあり、勉強になった。最初は俺も彼にあわせて小説や音楽の話に的をしぼり話していた。しかし、なにがきっかけだったのかは忘れてしまったのだが、俺は途中から彼にたいしてえんえんと美少女ゲームの魅力について語っていた。

もしかしたら、彼が「吸血鬼」が登場する小説について話していたときに、俺が『月姫』の話をむりやり挿入したのかもしれない。たぶんそうだ。迷惑なやつだ。彼はTYPE−MOONの作品について、あるいは一連のオタク系コンテンツに対する造詣が浅かった。ほとんど無かった。なので『月姫』という作品がいかにそののちの想像力に影響を与えたのか、という話を具体的な作品名を挙げながらプレゼンする作業は彼にとってふたつの意味でおもしろかったらしい。ひとつは端的に自身の知らないジャンルが存在しそこに一定の歴史的な蓄積が存在するという事実を知るという意味で。もうひとつはその歴史的な蓄積なかに一般的に拡張可能な知的鉱脈が張りめぐらされているという事実を知ったという意味において。なかなか楽しそうだった。俺はそれに味をしめて、ひろく美少女ゲーム一般に拡張して話を展開した。

具体的にどの作品についてどのような話を展開したのか、ということについては断片的な記憶しかない。しかし、すくなくとも二〇以上の作品について中核的なネタバレを行ったおぼえがある。俺は声がでかいので、あのベンチのまわりに居た人間にはその話のほとんどが聞きとれていたはずである。あるいは流し聞きした人間のなかには俺がネタバレした作品をこれからプレイしようとしていた人間が含まれていたのかもしれない。迷惑なやつだ。ネタバレオバケだ。ネタバレテロリストだ。

美少女ゲームという領域についての前提知識がない人間にたいして、美少女ゲームの魅力をプレゼンテーションするのはひさしぶりだった。すこしまえまでは、友人たちにたいして、美少女ゲームのエヴァンジェリストたろうとして、必至のプレゼンをくりかえしていた。そのなかには、はいはいという感じで適当に聞き流す人間もいれば、俺の話を真にうけすぎて、生活のすべて美少女ゲームにかけはじめた結果、留年すれすれのところまでいった人間もいた。しかし、俺はいつしかそういうことをしなくなっていた。

ひんしゅくをかうから自制していたとかそういうことではない。もしかしたらそうであってしかるべきなのかもしれないのだが、俺はそういうタイプの倫理的規制を積極的に解除することによって生きてきた。そしてそれはこれからも変わらないだろう。その方針を俺は俺のなかでの論理的一貫性にもとづき整備してきた。そのようにして構成された倫理的規制はある種の信仰と相違なく、それから脱出することは容易ではない。そしてこの方針は俺の生をよりよいものにするためにきわめて快調に作動しているので、それを見なおすことは、すくなくともこの短い時間の範囲のなかでは考えられない。

俺が美少女ゲームについて他人に話さなくなったのは、俺のなかに、いくら言葉を重ねたとしても、俺が美少女ゲームについておもしろいと思う部分がうまく伝えられないという感覚があったからだ。たとえおもしろいと思ってもらったとしても、それはその分野の歴史やそこで展開された想像力の「奇形性」について、ある種、ネタ的にそのおもしろさを享受するというかたちでしか認識されていないという気がしてしまうのだ。俺が美少女ゲームについて話すときにつねに通奏低音として据えている主張は「その奇形性は私たちの生の様式そのものの在り方にほかならない」というものだ。俺が誰かに美少女ゲームについてしゃべるとき、俺はつねに相手とのそのような現状認識の共有を目指してプレゼンテーションをしている。しかし、これまでにそのタイプの認識の共有が達成されたことはない

その原因として俺のプレゼンテーションスキルの低さが挙げられる。俺は美少女ゲームの話をするときには、毎回導入として、美少女ゲームの歴史と想像力の奇形的な発展を、ある種のネタとして話すようにしている。どのような話をするにしても話の導入にはそのような笑える話をすえたほうがいい。

ただ俺の場合はこの導入の部分が話の本筋として受けとられてしまい、そのあとの俺の主張というものがあまり本来的なものとして受けとられないのだ。間口までは相手を誘いこめるのだが、そのあとの配達の部分で毎回ミスが起きてしまう。そのような配達ミスに多くの生産性が宿っていることは前提として認めている。しかし、やはり俺は後段の話を本来的なものとして受けとってほしい。俺はまだそのための技術を身につけていない。あるいはこれからいろいろなことをしゃべるうちにそのタイプの技術を習得する日がくるのかもしれない。しかし、いまの俺にはその方途がまったく見えないままでいる。

「生の様式」についての話なのだから、端的に自身の人生経験やそれにたいする美少女ゲーム的想像力の貫入の事例について語るのもひとつの手かもしれない。しかし、俺はこれまでその手法を封じてきた。そしてこれからもそれを使うつもりはない。俺はそういう「人生語り」みたいなものは好きじゃない。湿っぽいからだ。

それにそのタイプの話はメッセージの伝達可能性をあらかじめいちじるしく限定してしまう。そのタイプの話は俺の感傷的な語りのリズムを共有できない人間にたいしては端的な雑音として受けとられてしまうからだ。

またテクニカルな話になるが、「人生語り」的な手法をもちいること自体が、俺の主張しようとしているメッセージとメタレヴェルで反発をおこしてしまうような気がする。またその反発を解消する作業には多くの論理的な手順が必要になるために、対面コミュニケーションにおけるその手法の使用は、こと俺の主張の伝達という目的においては適さない。この部分はとても複雑な話だ。それを展開するのに、この文章のリズムは適さない。あるいは別の場所でそれを展開することもあるのかもしれない。

 友人と美少女ゲームについてしゃべったみたいな話からいろいろと芋づる式に話が展開してしまった。だんだんと複雑性が増しているようなので、その話はここで切断する。

最初に書きたかったところいえば、ひさしぶりに美少女ゲームについて人に話して、俺自身もなかなかおもしろかったということだ。誰かにプレゼンすることによって、自分のなかでの整理がつき、これまでに現勢化していなかった新しいアイデアがあらわれるということもある。今回の会話ではそれが顕著にあらわれた。ひとつの話を終えるたびに新しいアイデアがつぎつぎと湧き、展開可能な話のラインの多さに戸惑った。残念ながらその会話は俺のバイトの時間が訪れたことによって打ち切られてしまった。だけど、友人が許してくれるなら、また美少女ゲームについてしゃべりたい。