adhoc notes

とりとめのない雑記

ちょっと前のこと

もうそのときのことはほとんど忘れてしまっているのだけれども、ただのひとつの論旨も理解しないままに、哲学書を読みあさっていた時期があった。話の展開を全く追えないままに、小説を読んでいた時期があった。あるいはいまでもそうなのかもしれない。けれどもそのときの俺の理解度の低さは、いまの比ではない。書かれている内容のほとんどを理解していなかった。

哲学書であれば、書物全体の議論構成はもちろんのことながら、個別の章がどのような主張を行っているのかも理解できていなかった。小説であれば、登場人物の名前が憶えられず(これはいまでもそうだが)、それぞれの人物のエピソードも整理できずに、ただ起きることを前段とのつながりを意識しないままに読んでいた。

そのときの俺はただ個別の文章とか単語とかに惹かれて本を読んでいるだけだった。それでも読みつづけると、さまざまな用語や論述の意味や、そこにこめられた文脈などが理解できるようになる。しばらくすると、ひとつの本のだいたいの内容を理解できるようになる。そんな風にして俺は読める本を増やしていった。

それがどれだけ孤独な作業であったのかを、いまの俺はほとんど忘れてしまっている。なんでそんなことをしていたのかも理解できない。その行為のなかになんらかの実存的な問題が賭けられていたのかもしれない。しかし、その問題がどのようなものだったのかも忘れている。 

ただ当時の俺は、その作業の孤独さに比して、なんともいえないような恍惚感に満たされていたような気がする。ひとつの作業を経るたびに、自身の観測する世界の地図が変貌していた。そんなダイナミックな展開が秒単位で起きていた。

いまでもそういうダイナミックな展開に出会うこともある。しかし、最初の一撃より鮮烈な印象をうける展開というものにはまだ出会えていない。いまの俺が当時の俺がうけた衝撃の詳細なディティールを忘れている以上、その最初の一撃の衝撃は、幽霊のように、二度と更新されえないものとして、俺のなかをただようことになるのかもしれない。あるいはそのことを完全に忘れたあとに、もういちど、最初の一撃が打たれることもあるのかもしれない。しかし、それはいまの俺には判断できない。

なんにせよ、その最初の一撃の衝撃の強さとその再現への欲望というものが、いまの俺のコンテンツ消費の傾向を規定している。コンテンツ消費の傾向とは人格形成の傾向のことでもある。いまの俺の規定にその時期の衝撃がある。いつかその時期のことを回顧して、あるひとつのリズムをそなえた文章に置きかえることによって、それらを相対化する作業に着手することもあるのかもしれない。ただいまはその時期ではない。

なんとなく夜更かしをしていたら、こんなとりとめのないことを考えた。